20年以上前に来た日本人女性。妻が日本語を話せるようになったきっかけとは【カンボジア生活】
妻の田舎があるコンポンチャム。
プノンペンから車で片道5時間はかかります。
村には今も、遠い親戚や知り合いが多く住んでいます。
前回のブログは、妻が通っていたカンボジアの中学校の話しをお届けしました。
今回は、妻が通っていた小学校です。
妻が日本語を勉強するきっかけとなった出来事があった場所です。
ここの小学校は、本当に片田舎にある学校です。
今も、普通に使用されています。
校庭の中央にはカンボジア国旗を掲揚するポールが立っています。
今から20年以上前、この小学校に一人の日本人女性が訪れ、文房具などを寄付してくれたのだそうです。
そのことについて記念行事としてテープカットをすることになったのだそうです。
まさに、このポールの前で。
村に初めて来た日本人です。
なぜなら、当時は船で川を渡らなければ往来できない村でしたから。
ひと目見ようと大勢の村人が校庭に集まったそうです。
その行事には日本人と校長先生のほか、学生を代表して妻が選ばれました。
妻は今でも、テープをカットした時のことを、しっかりと覚えているそうです。
しかし、妻は、「ありがとう」と日本語で感謝の気持ちを伝えたかったのですが、できませんでした。
その悔しさから、日本語を話せるよう勉強しようと決意したのです。
妻は日本人の名前を忘れてしまい、その方が今どうしているのかは、わかりません。
中学校の途中から家族でプノンペンに引越し、日本語学校で勉強し続けました。
そして、遂に日本語学校の先生にまでなりました。
20年以上前に寄付をしてくれた日本人が、この事実を知ったらどう思うでしょうか。
よもや、自分と一緒にテープカットしたカンボジアの少女が、今のようになるとは夢にも思わないと思います。
(KOICAの寄付を記した記念碑はありましたが)
残念ながら、妻と校庭をすみずみ歩きましたが、記念碑などはみつかりませんでした。
おそらく、その日本人は個人で寄付されたのではないでしょうか。
このことから学ぶことがあります。
今、カンボジアでボランティアや寄付をしている日本人の方は、何気なくやっているかもしれません。
でも、実は周囲のカンボジア人の人生を変えるような大きな影響力を持っているということです。
自覚を持つべきだと言っているのではありません。
ただ、自分がそういう影響力を周囲に与えているんだと知ると、意義も変わってくるんじゃないかと思います。
学校の向かえ側にはお寺があり、2人の十代の若いお坊さんに聞いてみました。
二人とも、この小学校を卒業しているそうです。
あそこの小学校に、20年前に日本人か来て寄付したのですが、知っていますか、と。
二人とも知らないと答えました。
――――
(2017年8月追記)
な、な、なんと! 妻が日本語を話せるきっかけとなった女性の方の名前が遂にわかったのです。
しかも、その事実を教えてくれた人が、またビックリ!
続編をどうぞご覧ください!
CDL代表
北海道札幌市生まれ。22年間、厚生労働省などで勤務。2012年、カンボジア人青年との偶然の出会いから、能力・スキルに見合った仕事につけない人がいることを知り、カンボジア人に職業を紹介するビジネスを決意。
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